八幡市アイコン  神應寺(じんのうじ)

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神應寺石清水八幡宮一の鳥居右の道沿いにいくと、神應寺の山門が見えてくる。貞観2年(860)、石清水八幡宮を勧請した行教建立の寺で、はじめは「應神寺」といったが、天皇の号をはばかり「神應寺」と改めた。
文禄年間(1592~1596)、征韓の役にあって豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣で、軍の先鋒に神官を望んだが、神社側は恐れて命に服さなかった。秀吉は機嫌を損ねたが、神應寺住僧の機転で、征韓の首途にはまず應神天皇の御寺に参詣すべきと進言。秀吉は機嫌を直し、寺領200石を寄進した。
本堂西側の小高い墓地には、江戸時代の豪商、5代目淀屋辰五郎が眠る。大阪の「淀屋橋」は淀屋が架けた橋である。「一刻の商いが80万両に及ぶ」という米市を初め、幕府や西国33ヵ国に総額15億両という大名貸しを行い、その威力は百万石の大大名も凌ぐ前代未聞の大豪商であった。

※拝観は要予約。

【住所】八幡市八幡西高坊24 【電話番号】 075-981-2109
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八幡市アイコン  正法寺(しょうぼうじ)

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正法寺
東高野街道沿いの八幡清水井の地にある。寺は建久2年(1191)に、清水(元静岡県清水市)の高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使としてこの地に居住し、新清水と称したことに始まる。3代目宗久は、石清水の「清」を避けて志水と改め、嘉暦元年(1326)、本格的な堂舎、仏閣を営んだ。第11代住持伝誉上人が天文16年(1547)、後奈良天皇に法談を行ったことによって勅願寺に補せられた。また、慶長年中(1596~1610)には、宗清の娘亀女(号=相応院)が徳川家康の側室となった。それには、こんなエピソードが今に伝わっている。
お亀さんが子どもを行水させていると家康の行列が通った。お亀さんは慌てて子どもをタライに入れたまま家の中へ。これを見ていた家康は「この人なら元気な子どもを生んでくれるに違いない」と見初めたという。お亀さんは、尾張藩主となる義直を産んだ。寺は同藩の庇護を受け、八幡領が検地を免除され、守護不入の特権を得られたのは、彼女の働きによるところが大きかった。現在の建物は、寛永7年(1630)に再建された本堂・方丈・唐門・鐘楼など七堂伽藍を備えている。


※公開日が決まっております。 平成29年の公開についてはこちらをご覧ください。→平成29年正法寺公開予定日.pdf
【住所】八幡市八幡清水井73 【電話番号】075-981-0012

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八幡市アイコン  善法律寺(ぜんぽうりつじ)

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善法律寺善法律寺は律宗の寺である。建物は本堂を中心に庫裡、阿弥陀堂、聖天堂が配されている。その本堂は、石清水八幡宮の社殿の材を用いて建立したものという。寺は石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間(1257~1259)に私邸を喜捨し、奈良東大寺から実相上人を招いて開山したことに始まる。
室町時代には、善法寺通清の娘良子が将軍足利義詮に嫁ぎ、3代将軍義満の母となった。義満は神社信仰に篤く、特に八幡宮を崇敬したため、20数回も八幡を訪れている。以後の義教、義政も足繁く往来し、将軍家と善法寺家との密接な関係が続いた。従って律寺も足利家の庇護を得て隆盛を極めたのである。
良子は善法律寺へ自分の好きな紅葉の樹をたくさん寄進したという。別名「紅葉寺」と呼ばれている。本堂に安置されている八幡大菩薩(僧形八幡)は、明治元年(1868)に神仏分離が行われるまで石清水八幡宮の殿内に安置されていたという。等身大の座像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ平安時代の作である。
また、境内には忠臣蔵で知られる大石内蔵助良雄の養子であり、太西坊(男山四十八坊の一つ)の住職であった、覚運とその弟子の墓がある。


※境内は拝観自由。本堂内は要予約。

【住所】 八幡市八幡馬場88-1  【電話番号】075-981-0157



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八幡市アイコン  泰勝寺(たいしょうじ)

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泰勝寺
大正7年に建てられた、社僧・松花堂昭乗ゆかりの寺。松花堂昭乗は、近衛信尹、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられ、書画、茶道、作庭など多方面に才能を発揮した一流の文化人でもあった。寺には昭乗を中心に、向かって右に実乗(昭乗の師)、左には萩之坊乗圓(昭乗の弟子)の墓が建っている。寺号の「泰勝寺」は、熊本市にあった細川家の菩提寺、泰勝寺からいただいた。本堂正面の方丈の額は九州より寺額とともに移されたもので、南宋随一の能筆家とされる無準師範の真筆である。寺には宝物館や茶席があり、茶席の「閑雲軒」は、日本の百席の一つに数えられている。臨済宗妙心寺派に属している。 

※拝観は要予約。
【住所】八幡市八幡平谷18  【電話番号】075-981-0056


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八幡市アイコン  単伝寺(たんでんじ)

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単伝庵古くは神原町にあったとされる。今は、別名「らくがき寺」として知られているユニークな寺である。山門を入った正面には大黒堂という御堂がある。この御堂の白い内壁が、願いを託した落書きで真っ黒になっている。 落書きは、年齢や性別、時代を問わず、人間生活における心の遊びでもあるといえる。
平城宮跡の発掘調査でも、木簡や土器などの遺物のなかに、いろんな落書きが見つかっている。さらに9世紀の嵯峨天皇の時代(809~822)になると、落文(おとしぶみ)や落首などと称して、政治、社会を批判するものがみられ、これらは匿名の文書を道に落としたり、門壁になどに貼り付けて衆人の目に触れさせるといったものであった。
こうした落書きは、公式文書には見られず、人々の「本音」があり、当時の世情を知る重要な手がかりとなっている。単伝寺を訪れる人々も、筆を持って白い壁に向かうときの緊張感と真剣さが、大願成就に結びついてるのかも知れない。


                                            ※拝観は土・日曜日9時~15時。それ以外の日は要予約。

【住所】 八幡市八幡吉野垣内33  【電話番号】 075-981-2307

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八幡市アイコン  講田寺(こうでんじ)

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講田寺の開山は不明だが、本尊に観世音菩薩を安置する曹洞宗の禅寺である。古くは生津村(京都市伏見区)にあったが、水害を避けて当地に移ったとされている。20段ほどの階段を登ると、本堂が見えてくる。その中に「笑地蔵」が安置されているが、その柔和な笑みのなかに人柱伝説の悲劇が伝えられている。
その昔、淀川に橋が架けられていた。しかし、出水のたびに流れてしまうので、ついに人柱が立てられ、そのためか、橋は流れなくなった。 この人柱になった男に一人の娘がいて、娘は父の死を深く嘆き悲しみ、ものを言わない人になった。やがて娘は、父の菩提を弔うために尼となって対岸の山崎に庵を結んだ。 それから歳月を重ね、あるとき、朽ちた橋の杭が水底から姿を現し、尼となった娘はそれに地蔵尊を彫って供養をした。人々はこの地蔵を「笑地蔵」と呼び、水難除け、交通安全、安産などの御利益があるとして信仰を集めるところになった。 


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八幡市アイコン  圓福寺(えんぷくじ)

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天明3年(1783)白隠四天王のひとり、斯経によって妙心寺末の臨済宗修行道場として創立された。南山焼の浅井周斎(1720~1800)らの寄附を得て寺様が整えられた。
今も、多くの雲水の修行する姿が見られる。
萬人講は、圓福寺で修行する雲水が毎月、日供講中の各家を日供米托鉢に廻り、毎年4月20日と10月20日の春秋2回、講中先を招待する「講中斎萬人講」として開催されている。萬人講では、日本最古といわれる「達磨大師座像」(重要文化財)を拝し、赤膳でおときを頂くと開運、厄除け、中風に霊験あらたかと、古来より深く信仰されてきた。近年は、この萬人講に全国各地から霊験にあやかろうと、約1万人を越える参詣者が訪れている。


【住所】 八幡市八幡福禄谷153  【電話番号】 075-981-0142


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八幡市アイコン  杉山谷不動尊(すぎやまだにふどうそん)

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八幡宮頓宮西側の谷道を登り詰めたところにある。谷不動ともいわれ、「厄除け不動」として人々に信仰されている。
平安時代の初期、危害を加える悪鬼が出没し、人々を悩ませていた。たまたま、諸国を行脚中の弘法大師(空海)がこの話を聞き、法力によって悪鬼を封じた。そして、一刀三礼により不動明王を刻んで安置し、諸人を護ったという。
また、一説には八幡神を男山に勧請した行教律師が男山の鎮守として建立したともいわれている。
その本堂には、悪魔降伏のために憤怒の形相をした不動明王(杉山谷不動尊の秘仏となっている)が座し、両脇には善悪を掌るコンガラ、制咤迦(せいたか) の2童子が控えている。不動堂の横を流れる谷川には、霊泉瀧(ひきめの瀧ともいう)があり、静寂のなかに清らかな水音を聞くことができる。


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八幡市アイコン  男山四十八坊(おとこやまよんじゅうはちぼう)
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明治元年(1868年)の廃仏毀釈前までは、石清水八幡宮は神仏混淆の神社であり、本殿では毎日読経が流れ、社僧という僧侶が社務を取り仕切っていたという。かつて男山には48もの坊があった。「坊」とはお寺のことで、今では石清水八幡宮参道の石垣と八幡宮本殿前の参道に並ぶ石燈籠に往時を偲ぶしかない。この48坊、ある時代に、すべて存在したということではなく、全盛期で50近く、これが火災や廃絶などによって減ったり増えたりしていた。江戸時代中期の古図「八幡山上山下惣絵図」には43の坊を見ることができるように、だいたい40前後が常に男山にあったようだ。その坊も明治の廃仏毀釈直前には23の坊になっていたという。
石燈籠の竿の部分には「宿坊 〇〇坊」と刻まれたのを見かける。この「宿坊」というのは、遠くから石清水八幡宮を参拝された旅人を泊める宿泊施設をもった坊であった。この宿泊費を坊の維持費に充てていたようだ。その四十八坊のひとつ、太西坊は石清水八幡宮本殿北側にあった。
太西坊の住職、専貞は赤穂の大石内蔵助良雄の実弟であった。元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及んだ「松廊下事件」が起こる。その7日後の3月21日に大石良雄は太西坊に対して「城はいずれ明け渡さなくてはならないから、浪人となる14~15人の仮住まいを探して欲しい。できれば男山の麓か山崎、山科、伏見、大津あたりで見つけて欲しい」という書状を送っている。このあと、大石良雄が江戸に下向するとき、太西坊に立ち寄り、仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれている。また、太西坊専貞の弟子の覚運は、大石良雄の養子となった人で、後に一時衰退した太西坊を再興した。覚運の墓は、その弟子2人の墓と共に善法律寺にある。太西坊の紋は二ツ巴を用いたと言われている。石清水八幡宮本殿北側には、ひときわ大きい太西坊の石灯籠が残っている。

石清水八幡宮境内に点在。
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