男山四十八坊(おとこやまよんじゅうはちぼう)

明治元年(1868年)の廃仏毀釈前までは、石清水八幡宮は神仏混淆の神社であり、本殿では毎日読経が流れ、社僧という僧侶が社務を取り仕切っていたという。かつて男山には48もの坊があった。「坊」とはお寺のことで、今では石清水八幡宮参道の石垣と八幡宮本殿前の参道に並ぶ石燈籠に往時を偲ぶしかない。この48坊、ある時代に、すべて存在したということではなく、全盛期で50近く、これが火災や廃絶などによって減ったり増えたりしていた。江戸時代中期の古図「八幡山上山下惣絵図」には43の坊を見ることができるように、だいたい40前後が常に男山にあったようだ。その坊も明治の廃仏毀釈直前には23の坊になっていたという。
石燈籠の竿の部分には「宿坊 〇〇坊」と刻まれたのを見かける。この「宿坊」というのは、遠くから石清水八幡宮を参拝された旅人を泊める宿泊施設をもった坊であった。この宿泊費を坊の維持費に充てていたようだ。その四十八坊のひとつ、太西坊は石清水八幡宮本殿北側にあった。
太西坊の住職、専貞は赤穂の大石内蔵助良雄の実弟であった。元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及んだ「松廊下事件」が起こる。その7日後の3月21日に大石良雄は太西坊に対して「城はいずれ明け渡さなくてはならないから、浪人となる14~15人の仮住まいを探して欲しい。できれば男山の麓か山崎、山科、伏見、大津あたりで見つけて欲しい」という書状を送っている。このあと、大石良雄が江戸に下向するとき、太西坊に立ち寄り、仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれている。また、太西坊専貞の弟子の覚運は、大石良雄の養子となった人で、後に一時衰退した太西坊を再興した。覚運の墓は、その弟子2人の墓と共に善法律寺にある。太西坊の紋は二ツ巴を用いたと言われている。石清水八幡宮本殿北側には、ひときわ大きい太西坊の石灯籠が残っている。
※石清水八幡宮境内に点在。ページトップへ